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いづみやの歴史

こんな居酒屋が日本橋にあったんですねぇ

酒席「いづみや」
先客来遊長夜(せんきゃくらいゆうちょうや)の飲(いん)
語(かた)りつくせぬ 酒浪漫(さけろまん)
もとをただせば徳川の 幕府の開祖家康公に
まつわる由来の佃島(つくだ)より 棹(さお)さし渡す鉄砲洲(てっぽうず)に
産(うぶ)声あげた酒問屋 掲げる看板「いづみや」の
屋号うけつぐ日本橋
  
この地を守る鎮守社の 於満稲荷(おまんいなり)のすぐ隣り
素材(そざい)選(え)りぬき低廉(ていれん)な
名代(なだい)の酒楼精粋(しゅろうせいすい)の
ふくべ印の「いづみや」に歴史のロマン見つけたり

酒席瓢箪「いづみや」はこんな居酒屋でございます

「いづみや」横の満稲荷社もご覧下さい
今から凡そ四百余年の昔徳川家康公が本能寺の変の難を避ける際、道案内等で世話になった佃村の人々に、江戸に土地を与えて住居を許可した所が中央区湊(みなと)界隈ですが、「いづみや」はその鉄砲洲に看板を掲げた酒問屋でした。以来江戸・明治・大正を経て昭和に及び、戦後の昭和22年、焼野原のこの地へ場所を移して、その屋号を引き継ぎ看板を守っているのがこの酒所、瓢印の「いづみや」でございます。たんに「いづみや」というより、この土地周辺に商いし住まわれている方々も含(ふく)めてですが、もう一つ守っているものがございます。それが当社の直(す)ぐ脇隣りに鎮座(ちんざ)まします於満稲荷社(おまんいなりしゃ)でございまして、当社は固(もと)よりこの辺一帯で大事にお守りしております。土地を守るお稲荷さんでございますが、家康公の夫人於満(おまん)の方(かた)に縁故(ゆかり)あるというお話も承(うけたまわ)っております。そういえばこのお稲荷さん、通りに向かって横向きに、と申しますより皇居つまり旧江戸城を守護するように北方へ正面を向けておられます。
どうぞ、ご来遊の折りには、瓢印の「いづみや」の看板と共に於満稲荷社も、直接あなた様の眼でお確かめ頂ければ幸いでございます。

亭主敬白

養珠院通りが誕生

養珠院通り
文案起草  池田直一(平成17年2月11日)
養珠院(ようじゅいん)通り (道路名称開設案)
起点 中央区八重洲一丁目七・八番先
終点 中央区日本橋三丁目七・六番先 

道路愛称の「養珠院」とは、今からざっと四百年前の徳川幕府草創期に、徳川家康の側室として、いわば幕府を裏から支えた女性”於満(おまん)の方”のことです。そして、かの有名な水戸黄門こと徳川光圀の孫であり、第八代将軍徳川吉宗は曾孫に当たります。 
    
 
この於満の方を祀る稲荷社(いなりしゃ)がいつ、どんないわれでこの地に創建さ れたかは、万治年間(1658-60)頃というほか定かではありませんが、稲荷社に関しては江戸切絵図「八丁堀霊岸嶋日本橋南之繪圖(はっちょうぼりれいがんじまにほんばしみなみのえず)にも於満稲荷(おまんいなり)の記載があり、文献『用捨箱』には徳川吉宗の治世の享保(1716-35)頃には、於満稲荷に紅を供えて願い事をする風習のことが伝えられていて、徳川家康の心 を動かした美貌の女性、於満にあやかろうとする庶民感情がよく表現されております。また、行き交う人の賑わい振りは、宝暦(1751-63)頃に開業したという” おまん鮓(ずし)”を取りこんだ安永四年(1775)の落首(らくしゅ) 

  鳥飼も鮓もおまんハわるくなし
  (鳥飼とは当時評判の銘菓で饅頭のことだそうです) 

と詠まれ、大層繁昌したといいます。
いずれにしてもこの道路は、京橋・中橋筋上槇町新道と呼ばれた大変賑やかな通りだったようです。 ちなみに、養珠院は天正五年(1577)に生まれた承応(しょうおう)二年(1653)に没し、その法名は、養珠院殿妙紹日心大姉(ようじゅいんでんみょうしょうにっしんだいし)といいます。また、「於満稲荷社」は、中央区日本橋三丁目三番三号の酒席いづみや横にあります。