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文案起草 池田直一(平成17年2月11日)
養珠院(ようじゅいん)通り (道路名称開設案)
起点 中央区八重洲一丁目七・八番先
終点 中央区日本橋三丁目七・六番先 |
道路愛称の「養珠院」とは、今からざっと四百年前の徳川幕府草創期に、徳川家康の
側室として、いわば幕府を裏から支えた女性”於満(おまん)の方”のことです。そ
して、かの有名な水戸黄門こと徳川光圀の孫であり、第八代将軍徳川吉宗は曾孫に当
たります。 |
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| この於満の方を祀る稲荷社(いなりしゃ)がいつ、どんないわれでこの地に創建さ
れたかは、万治年間(1658-60)頃というほか定かではありませんが、稲荷社に関しては江戸切絵図「八丁堀霊岸嶋日本橋南之繪圖(はっちょうぼりれいがんじまにほんばしみなみのえず)にも於満稲荷(おまんいなり)の記載があり、文献『用捨箱』には徳川吉宗の治世の享保(1716-35)頃には、於満稲荷に紅を供えて願い事をする風習のことが伝えられていて、徳川家康の心
を動かした美貌の女性、於満にあやかろうとする庶民感情がよく表現されております。また、行き交う人の賑わい振りは、宝暦(1751-63)頃に開業したという”
おまん鮓(ずし)”を取りこんだ安永四年(1775)の落首(らくしゅ) |
鳥飼も鮓もおまんハわるくなし
(鳥飼とは当時評判の銘菓で饅頭のことだそうです) |
と詠まれ、大層繁昌したといいます。
いずれにしてもこの道路は、京橋・中橋筋上槇町新道と呼ばれた大変賑やかな通りだったようです。 ちなみに、養珠院は天正五年(1577)に生まれた承応(しょうおう)二年(1653)に没し、その法名は、養珠院殿妙紹日心大姉(ようじゅいんでんみょうしょうにっしんだいし)といいます。また、「於満稲荷社」は、中央区日本橋三丁目三番三号の酒席いづみや横にあります。 |